曇り始めていた空はすっかり晴れ、海岸線を斜めに照りつける太陽はキラキラと反射して、車内は西日に照らされて清潔に輝いていた。
15:57吹浦駅発、秋田に向かう列車はひたすら海岸線を走っていた。 あまりに気持ちがよくて、誰もがぽーっとなるのです。 吹浦駅近く、スーパーのお惣菜コーナーで買った大きな『タコつくね棒』2本と『唐揚げ』1パックを食べながら、車窓にへばりつきうっとりしていた。 砂時計のようにゆっくり、それでも刻々と夕陽は傾いてゆき、やがて高校生達が乗ってきて活気づいた列車は、さらに北へ向かった。 光やら季節やら気分やら時間やら、様々なタイミングが絡み合って、 本当に素敵、涙溢れんばかりの景色と時間だった。 秋田に着いたのは17:24。 懐かしい盛岡へ向かおうかと思ったのだけど、既に最終列車はなく。 明日までに東京に戻らなければならない僕は、大曲を抜けて山形県の新庄まで南下することにした。 列車は混んでいた。 大曲を過ぎた頃にようやく座れ、残りの2時間近くは本を読んで過ごした。 列車は少しずつ乗客を降ろしてゆき、そのうち駅に着いてもドアすら開かなくなった(北国の列車の多くは、乗り降りする人が自分でドアの横のボタンを押してドアを開ける)。 やがて、闇の中を跳ねるように進んでゆく車中は、旅人ばかりになった。 フリー切符発売期間は、全国どこに行っても旅人が多い。 始めのうちは一般客と見分けがつかないのだけど、始発から終点まで、 さらに次の列車も同じになると、お互い旅人だとわかってしまう。 それに旅人は、必ずと言っていいほど時刻表を身の回りに置いているし。 自分も含め、なんとなくうざいから(笑)わかるのだ。 旅人だらけになったガラガラ車内は、みんな好き勝手な体勢をとり始め、 独特の開放感と退屈感で満たされる。 やっぱり、うざいのである。 21時近くに新庄駅前の安ホテルに素泊まりを決めて、あまりお腹がすいてなかった僕は、コンビニに少しばかり夕食を買いに出かけた。 新庄駅前は、人影はないが、居酒屋、スナック、パブといった飲み屋は多く。 各戸の隙間からは、笑い声とともに活気ある雰囲気が漏れていた。 心地よい気温で、見上げれば奇麗な星空。 なんだかホテルに戻るのがもったいなく、市内を少し歩いてみることにした。 夏の大三角形、カシオペアに北極星、、 見上げながら歩く夜の路地脇からは、水と虫の音が涼しく。 しかし、久しぶりに見上げた星座や名前の多くは忘れていた。 福岡、盛岡と田舎で過ごした僕にとって星空なんて、見上げれば当たり前に映った世界だったのに、「久しぶりに見たな〜」と思うなんて。複雑な気持ちだった。 点在する酒場通りを抜けようとした時、偶然にも、小さな活気ある韓国風居酒屋の入り口に貼られてある知人のポスターを発見した。 それは、『タダセンパイ』というソロアーティストのものであった。 タダセンパイは、上京してすぐ、ライブハウス『ターニング』のブッカー(ブッキングをするスタッフ)としてすごくお世話になった人だ。 僕が、ある音楽事務所でプレゼン用のレコーディングをした時も、ついてきてくれたし(自分から)。 また、ターニングでワンマンライブをやった時にも、スタート直前に店長を連れて前説をやってくれた(自分から。ペンギンの着ぐるみを着て、しかも15分も)。 ある時は「ありけん、今ちょっと千円ある?」と困った風に言うので、千円差し出すと、「はい」と自分バンド(レッサーパンダ)のライブのチケットを渡されたり。(もはや押し売りである) 憎まれ口に聞こえるかもしれないけど、タダセンパイは、それらが許せてしまい、親しみの持てるキャラクターなのだ。 自分で『国宝』と言っているタダセンパイは、伝説や無茶も多いが、どこでも特異に許されている(いや、そうでないところもある)。 だから僕も『国宝』だと認定しているし、尊敬もしている。 さらにタイムリーなことに、5日後、池袋のライブハウス(入ってすぐ副店長まで上りつめてるし)で会うことになっていた。 そんな、ゴキブリ顔負けの脅威の生命力を持った『タダセンパイ』のポスターが、こんな所に貼ってあるのだ。 ライブハウスや、ライブバーなどならまだしも、、 鉄板焼き、焼き肉、キムチ、冷麺、プルコギ、タダセンパイ。 そんな感じで、小さな居酒屋にしれっと同化している。 いったん通り過ぎたものの気になった僕は、その韓国風酒屋に入ってみた。 お酒を断っている僕は、ウーロン茶と冷麺を頼んで、店主にポスターのことを聞いた。 タダセンパイは新庄市出身で、店主の息子の友達で、新庄祭りの時に貼って帰った。とのことだった。 しかし地元とはいえ、ただでは帰らないタダセンパイをすごいと思った。 人は生きていると様々なしがらみもできて、疎遠になったり、不仲になったりする人もでてくる。 だけど、時間が経ってたり、遠い場所などでばったり出会うと、思わず「おおー!」 声をかけあったりしてしまうものだ。 そのとっさの「おおー!」には、なんの計算も下心もなく、純粋にその人に対しての親しい気持ちで溢れていると思う。 その人との親しい時間や楽しい時間は確かに流れていたわけで、それを忘れずに別れてゆければいいよね。 ちなみに、タダセンパイとは疎遠でも不仲でもないよ(笑) 秋田新幹線、山形新幹線は、在来線と同じ線路を運行する。 遮断機が下りてきて、目前を新幹線が爆音のように駆け抜けてゆくのだ。 完成当時は、じっちゃんばっちゃん達の開いた口が塞がらなかったという(笑)。 『日本海の旅』3日目、やっぱりしっかり眠った僕は、東京に向け奥羽本線で南下を始めた。 平地と丘と山と積乱雲、晴天の山形を行く、 初秋の朝は心地よく、果てしないやまぶき色の田園は盆地をより明るくし、 芦の濁ったゴールド、ススキのシルバーは、車風に波打ち、 部活へ向かうおしゃべり女子高生は2駅で降り、 次に座った、小さな子ども2人の母子もやがて降り、 となりの空席には誰が座るのかな 米沢で乗り換え、行商の大荷物のおばあさんの隣に。 しかし、すごい荷物だ。 米沢〜福島間は、電車の本数もわずかで、それも納得の山間部である。 おばあさんは、米沢に行商、買い出しに行った帰りらしい。 赤庭という、壮絶な山の駅で降りていった。 どうぞお元気に! 山間部は、こんなプレハブの防雪駅が続く。 停車時間がないにも関わらず、降りてカメラを撮る僕と少年。 「発車しますよー」車掌はめんどくさそうである。 隣の4人席に、テンションの高い母子がいた。 少年は、小学2、3年生といった年頃で、その若さにして早くも『電車おたく』だった。 仙台在住のこの母子は、朝早く仙台を発ち、この列車に乗ったらしい。 『福島発→小牛田行』の途中駅で、2両編成から数量編成に連結する瞬間が見たい。 そう言い張る子どもに連れられての日帰り旅中らしい。 すごい…、将来有望だ。 福島で降りたこの微笑ましい母子は、小牛田行きホームへと元気に階段を駆け上って行った。 東北本線(東海道線なども)は、1日に1筋か2筋、乗り換えの待ち時間が少なく、東京までスムーズに乗り継いでゆけるように組んである。 例えば、 仙台から白石、ここで2時間待ち。白石から福島、ここで40分待ち。福島から郡山、ここで1時間半待ち。 こういったことは普通なのだが、この待ち時間が各10分程度で岩手から東京まで行けたりするのだ。 フリー切符旅人は、この波を逃さない。 従って、この波にあたる列車は、南下するに従って混み始めるのだ。 そして、福島から郡山。郡山から黒磯。そういった乗り換えポイントでは、旅人はみんな走り出す。 それはそうだ、もし座れなかったら2、3時間立ちっぱなしになるからね。 だけどその絵が、東京での朝のラッシュのようで複雑な気持ちになる。 地元の人にとっては、びっくり迷惑である。 波を逃して、1本送らせた僕は駅ソバを食べ、乗り継ぎの悪い旅を続けた。 17:24、黒磯で『フェアウェー快速』(金土日に限り1日1本運行というめずらしい電車)が動き始めた頃、窓にはもう僕や車内が映り始めていた。 外は時折激しい雨で、旅は終盤に向かって猛スピードで進んでゆく。 旅の終わりと祭りの後は、何となく似ている。 どこか少しでもタイミングが違えば、鳥取に行っていたかもしれないし、青森の先端に行ってたかもしれないし、どこにも行けなかったかもしれないし。 僕は、なるようにしてなった3日間のルートを、時刻表の索引地図で見返してみた。 日本海、よかったなぁ。 関わってくれたみんな、ありがとう。 やがて、贅沢な時間を噛み締めた『フェアウェー快速』は、池袋の長いホームに滑りこんでいった。 やっぱり、いつものポーズで。 2008年9月『日本海の旅』おわり
by a-k_essay
| 2008-09-14 10:36
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